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アーカイブス

先輩に聞こうⅡ

2019年6月8日(土)宿泊研修会
(於)リザンシーパーク谷茶ベイ

司会 崎原美智子(29期) 翼アーカイブス 先輩に聞こう第2弾を行います。今日のゲストは2期宜野湾市の石川ヨシ子先輩と10期西原町の浦崎成子先輩です。お二人は快く引き受けてくださいました。有難うございます。よろしくお願い致します。 最初に浦崎成子先輩よろしくお願いします。

浦崎成子(10期) 皆さんこんにちは!本当に宿泊研修会はハードスケジュールで、「翼の会」はいつもエキサイティングな催しが入っているので「この女たちはなかなかやるじゃん」という満たされた想いでいつも帰っております。
 「アーカイブのことでお話を」と言われまして、私は二つ返事で引き受けました。今日は私が喋るのがスローですので原稿を読み上げるという形にしたいと思います。これも90歳で亡くなった私の母が老人の日に孫たちに招待されてカラオケに行った時に「有難うの挨拶」を小さな紙に書いて用意をし読み上げていたんですね。私も年寄りになったらきちっと原稿を書いて読み上げようと思っていました。
 すみません、老人の必携アイテムを「杖」、「入れ歯」、「めがね」のうち「めがね」を見事に忘れまして下のコンビニで2160円散財してしまいました。「めがね」が不調で原稿がよく読めません。
 今年度より1期から10期までは幹事の役目が免除されましたので肩の荷を下ろしてほっとしています。が残念なことは幹事会に参りますと私より先輩の皆さんが非常に端正なたたずまいで意見を“びしっ”とおっしゃる。また若い方は事務整理を見事にきれいになさるんですね。こうしたお姿を直接見ることが出来なくなるのは心残りです。
 今回宿泊研修に参加するにあたって「翼」メンバーの心遣いに改めて感謝申し上げます。非常に丁寧で爽やかな電話が次々とかかってきました。「会場までのバスを用意していますのでお乗りになりますか?」「アーカイブよろしくお願いします」と。極めつけは鈴木会長の「浦崎さんよろしくお願いします」とあの声でささやかれてしまいました。
 さて「翼アーカイブス」「先輩に聞こう」というカジュアルなタイトルは魅力的です。「翼の会」に参加した女性達の声を記録するということは地味な作業ですが沖縄の女性達にとっては大切なことと思います。またこの事業に予算を割いていることには満足しています。より充実するよう期待しております。
 それでは私が「翼」に参加した経緯、その後の活動、今後の「翼」について望むことなどお話したいと思います。
 私は1993年に第10期で事務局長の役割でアセアン4か国(タイ、インドネシア、マレーシア、シンガポール)へ行きました。また、その後の「翼の会」では10期の幹事として参加してきました。
 10期の参加者についてお話しますと、島袋タケ団長含め、16名の参加でした。残念ながら3人の方が鬼籍に入られてしまいました。以前は細かな交流がありましたが近年は新聞でお互いの活躍を知ったり、時折お互いの近況を電話で確かめるというお付き合いです。
 「アセアン4か国視察」は私には初めての事で、それぞれの国の女性の活動に触れたことはインパクトの強いもとなりました。「翼」参加後、その後台湾、韓国、フィリピンへ国際シンポジウムとかフィールドワークで行くこともありましたが、「翼」のアセアン視察がアジアへの視野を広げ行動する起点となりました。
 また沖縄県女性史の調査事業で、戦後初期に「フィリピンスカウト」として米軍で働き、フィリピン人と結婚しフィリピンに渡った沖縄女性の聞き取り調査に現地まで出かけたこともありました。「翼」研修によってアセアンが今どういう状況にあるか、今も文化や政治の動向に関して関心を払っております。
 次に「女性の翼」の参加のきっかけですが、実はそれまでは「翼」の事業が行われている事を知りませんでした。新聞など2-3種類読んでいましたのに関心がありませんのでスルーでした。私自身が「翼」に関心を持ちましたのは沖縄県で全国初の女性副知事の誕生か?ということがありましてその時が県の女性行政、女性問題に関わった最初でした。
 大田知事が知事室におられて「皆さんは私が女性政策室を作ろうと表明しているのに沖縄のどの女性団体からも設置してくれとの要請がないではないか」と叱責に近い言葉で言われました。当時、私は「沖縄ウイメンズネット」という団体を立ち上げていましたが「今各県の女性センターについて資料を集めています。近日中に要請文をお出しします。」と切り口上で申しました。ところが私は沖縄の女性団体がどのような状態であるのか全く知りませんでした。そんな時、県の方から「翼に行きませんか」と声かけていただきました。渡りに船・・・・でした。
 関心はアセアンとか海外に行くとかではありませんでした。私は西原町に住んでいますが西原町のどの女性団体にも属していませんでした。担当の方が町の人材育成のほうに掛け合ってくれ、10万円を確保してくれました。助成金を頂いたばかりに?と言いましょうか、あれから今日まで西原町の女性行政や団体と関わることになりました。現在助成金はありません。これが「翼」に参加するきっかけとなったのです。「翼の会」に参加すれば沖縄の女性団体の方々に会えると思いました。
 「翼」に参加することで沖縄の女性団体の動きが先ず知りたいのとネットワークが出来ればいいなという気持ちで参加しましたがこれは見事にヒットしました。お陰で私自身は「翼」に参加することで多くの団体を知るチャンスと人脈を得ることが出来たのです。
 1993年の視察から23年間経ちまして、得たものの大きさは数えきれないもので本当に大きな財産となりました。それぞれに優秀な方が職種を越えて本当に「翼」のために働いてくださっています。彼女たちの生き様がぶれないんですね。若い期の方も、年を経てそれぞれに成熟していくのを見るのは本当に素晴らしいことです。とりわけ身近では、10歳年上の島袋タケ団長が地域女性をリードし、充実した活動を継続しておられる姿は、私の手本です。
 現在、私は西原町の「女性団体連絡協議会」事務局長、「金城良子基金」事務局長、「新崎盛輝平和奨励基金」の運営委員をしております。これらをとおして若い人を育てることの喜びを感じております。
 「翼」も会員が増えて事業が浸透しにくくなったのではないでしょうか。お互い協力しながら翼を育てていきましょう。有難うございました。

司会 次は2期の石川ヨシ子さんです。よろしくお願いします。

石川ヨシ子(2期) 皆さんこんにちは。チューウガナビラという言葉がありますね。ホントは方言で話したいのですが若い人がいっぱいいるので日本語と“うちなーぐち”をまぜながら話したいと思います。
 先ほど幸喜徳子先生のお話を聞きまして、先生は飛行機で空を飛び回っているイメージが強いのですが、私は地域に根差したほんとに地道な活動をやって来ました。
 その中で先ず私が最初に誘われたのはバレーボールなんです。「ママさんバレー」がありました。県内で98チームありました。その県内で役員をしながら副会長し「普天間クラブ」を結成しまして県で優勝しまして東京大会まで出場しました。
 これは私の一つの健康づくりと思いまして参加したのですが、その間、教育委員会から目を付けられまして市の婦人会長やってくれと言われました。“でーじなとーん!”子供3名がいて仕事しながら、そんなことお許しくださいと断りましたが、「あなたがやらなかったら次が無いよ、組織が崩れるよ」と脅されて婦人会をやりました。3年間やりました。
 その中で一つ目玉があると思います。それは当時「婦人の検診カー」というのがありました。各市町村、日を決めて巡回していました。それを受けるのに1人1200円のお金を出していたので、これではいけないと思いまして市に要請しました。せめてその半分でも行政が用意してくれたら助かりますと。
 市婦連の部長たちを連れ込んで60万円獲得しました。行政600円個人600円のお陰で会員がぐっと増えました。一つの大きな目玉だったなと今思っています。
 更に、婦人会では美化コンクールというのがありました。各市町村競争して特に中部は優秀でした。私は市の農林課に行って桜の苗木をもらってきたんです。それを野嵩3区の婦人会が引き受けてくれて基地周辺に植えたのです。今は見事に咲いています。県から優秀賞をもらいました。もう私たちは「本部」に行かなくて「野嵩」で見ようねと話しています。
 次に私は沖婦連の役員になりました。私はまだ40代でピヨピヨでしたが、宮里悦会長から「次はあんたたちだよ。今、行かないと育たないから」と無理にアセアンに行かされました。
 シンガポールからインドネシア、タイに行ったのですが、一番印象に残っているのは、インドネシアの女性大臣が私たちに会ってくれたことです。その大臣から言われたことです。「みなさん、日本の女性達よく考えてくださいよ。」
 ちょうど日本は高度経済成長期で車1台売るとその職員には10万の賞金があったらしいんです。その金でアセアンに女性を買いに来る。いわばセックス産業ですね。そういう時代だったんです。ですから「あんたたちの夫がそういうことをして、お土産受けているんでしょう?」といわれ、そういわれた時はほんとに顔も上げられないくらい恥ずかしい思いをしました。アセアンではほんとに日本の女性は考えないといけないなと思い知らされました。
 婦人会も終わってやや落ち着いたころ、子供孝行したいと思っていたのですが、子供3人いるので子供たちとは進学など書置きして会話していたんです。台所には書置きの水屋が会話の場になっていました。そんな時、赤十字奉仕団を結成してほしいと言われました。私はお仕事しながら大変疲れていますからお許しくださいと言ったのですが、県の赤十字団結成のきっかけを作った「島ます先生」のボランティアの活動の本が出ていましたので、福祉の精神などをまなび、結局30年やりました。長い間活動したお陰で赤十字からも度々表彰されました。
 その間、県から勧められて、貯蓄推進委員をしませんかと言われ、貯蓄とはお金の貯蓄だけでなく、頭の貯蓄でもあります。一鉢花咲かす運動そういったもろもろの運動をしながら1ヶ月1日100円「つもり貯金」を実施しました。1ヶ月には3000円集まるのですね。貯蓄推進委員の名義で銀行に納めるんです。それが4年間続けたんです。一人抜け二人抜けしましたけど180万円ためました。それを分配しました。私は今だに続けています。海外旅行も沢山行きましたけど全部それで行きました。
 貯蓄推進委員の担当が「翼の会」の会長だった安次富初子さんで当時県の課長だったんです。勧められて県からの推薦で大蔵大臣から表賞状を頂きました。そういうことで私の運動はずーと地道にみんなを引き連れて一緒にやって来ました。
 あと個人的には高里すずよさんの「基地軍隊を許さない行動する女たちの会」にも参加しました。ロサンジェルスからサンジェゴに行った時軍艦が港についていて、天願の桟橋に行く船なんです。だから危ないんです。イルカが板に乗せられていて、ここの魚は食べられませんと書いてありました。放射能が軍艦から発生されているんですね。沖縄の海も相当汚染されていると思います。
 また、女団協として議員をやってくれないかと言われ、力ないながらにも、2期8年やりました。終わってから、これは女性の視点からいくらでも若い女性が発言できると思いました。子供の問題、旦那の問題、家庭の問題等々。その中から議員が出るだろうと期待をしまして、渡嘉敷県議がその中から出たり、女性市会議員が3人増えました。そういうことで議会活動を行いました。
 ホントに自分の歩んだ道がいまさらこの年齢で皆さんの前で報告するとは思ってもいませんでした。「宜野湾の翼の会」の若い人が「先輩たちの歩いた道を聞かせてほしい」とアーカイブスを語ろうと、「武勇伝」という名で地域でやったんです。それがきっかけで「先輩又出てください」と言われて、来たんです。今日はほんとに心配でした。出来るかできないかを、皆さんに励まされて連れていくと帰りも送ってくれるというので条件付きで参加しました。ほんとにつまらない話だったかもしれませんが。久しぶりに参加しました。楽しく皆さんと過ごしました。
 最後に気になっている事があります。宜野湾市に有名な前原新町というところがありました。全国でも有名になって、タクシーが空港から直行するんです。お客を連れてくるんです。平成12年から17年間、各組織から毎週木曜日二人ずつ出て、自治会を動かし議会を動かし、男も女も一緒になって撤去させました。今は新しい企画が出来つつあるようです。
 最後に、私は平成15年に宜野湾市長より市政功労賞を受賞しました。更に平成16年に日本赤十字社より金色特別社員賞を頂き、長年の功労に対して宜野湾地区長(市長)より感謝状の贈呈を受けました。
 こう見てきますと私のこれまで歩いてきた道は決して無駄でなかったと思っています。
 是非皆さんもやる気を起こして自分自身の力になると思って頑張ってください。
 先輩から言えるのはこれだけです。有難うございました。

司会 浦崎さん、石川さん有難うございました。